園長先生からのメッセージ
お母さん、お父さんになった皆さんへ
親になっていく道のりは、自分の生い立ちや子ども時代の記憶をたどる作業から始まります。子育ては、もう一度子どもになって、新しい子どもの時代を生きなおす時間のように思います。ある時は親のあたたかい手で、またある時は大人の大きな手で、そして子どもと同じ小さな友達の手になって、我が子の手をとっていくつもの川を越えていくような冒険の体験です。就学までの最初の川、幼児期を私たちが一緒に渡っていきます。
みくま幼稚園は小さな私立学校です。子どもが初めて出会うからだと心の学校です。子どもの人生にとって有意義であること、それが原動力です。
支えて引いていた小さな手、ずっとつないでいたんだよ、これからもつないでいるよ、あなたに出会えて私の人生は本当に豊かなものだった、時がたって小さな手を懐かしむ時も来るでしょう。
私たちは握っていたその手が川の向こうで離れる時が来ても、ずっとつながり続けていく幼稚園を実現したいのです。
ずっとめぐり続ける豊かな森のようでありたいと願っています
大きな歯車を小さな力でゆっくり満たして回してゆく話
50年ほど昔、母に連れて行かれた小児科で、母は先生に「お子さんは滲出性体質 (しんしゅつせいたいしつ)かもしれません。」と言われました。外部刺激に対して異常に敏感で滲出性反応をおこす体質で、乳児、幼児に多く、小さな傷でもリンパ節が腫れやすく、下痢、喘息性気管支炎などの症状が出る体質らしいのですが、半分は当てはまり、半分は当てはまらず、診断が本当かどうか確かめられないまま大きくなり、年を経るに従って何かと自分で対処できることも増えて、自分の体質に振り回されることも減り、十代が終わる頃には「小さい時には手のかかった子」として落ち着いてしまいました。
母親は大変だったろうと思い起こすのは、化学繊維のぬいぐるみを抱いては湿疹が出て、毛糸のセーターを着ては首元が腫れ、急に足の指先の皮がむけてきたり、夏には体に謎の発疹が出たり、冬にはお尻や太ももが真っ赤に腫れあがるようなじんましんが出たりと、とにかくどこかに何かしらの不調があっていそがしく、これと言う原因もわからず、当時は子育ても幼稚園の事業も必死であった母親でしたが、必死で余裕のないこうした母親が相談にゆくと言われる助言は今も昔も残念ながら「お母さんが無理をすると子どももしんどくなりますよ。」というものではないでしょうか。原因は「愛情不足」、暗にそういうことを言われ続けた母のことを思うと大変申し訳なく気の毒に感じます。当時の母も、きっと自分の無理は十分わかっていたのだろうと思うからです。
あの頃、まだ若かった母が仕事も家事も必死でやりくりする状態で、夕飯時には母がいないこともありましたし、手のかかる私に疲れた母が不機嫌に怒ると「別に私が働いてくれって頼んだわけじゃないのになあ。」と不満を感じたものですが、なんだかんだと小さな出来事こそあれ大事には至らず、親子にはすったもんだはありましたが、私は両親に守られて、将来は親元を離れて独立できるようあたたかく家庭教育を施され、手をかけて育てられた幸せな子どもでしたし、母は母なりのやり方で子育てを一生懸命していたと今こそ実感しています。
私が今より若い頃、私は仕事も子育てもできかねていました。どちらもできず、それでも毎日は無情にも矢のように早く過ぎて、明日こそは生活を立て直そうと夜は考えるのに、結局次の日もあわただしくやってきてあっという間に夜になってしまうの繰り返しでした。そんなある日、私は息子の小学校の担任に懇談を申し込まれ出かけてゆきました。いわゆる「呼び出し」です。息子が集団生活では手に余る子どもであったのは私にもわかっていましたし、その年も、その前の年も、忘れ物だらけで宿題もやらないままであったのはじゅうじゅうに知っていました。ああ、また今年も担任の先生に親子で説教されるのかと出かけて行った私でしたが、その先生は私の毎日の生活の様子をたずね、なかば投げやりにもなっている私に根気よく耳を傾けて話を聞いてくれました。そして私の話を聞き終わると「よくわかりました。とにかく毎朝出勤前にお子さんの健康状態だけを見てやってください。友達にうつすような病気や、大きな病気の兆候だけを見逃さないように毎日の健康視診だけはしっかりやってから出勤してください。健康状態だけ確認していただいたら、とにかくお子さんを学校へ登校させてください。それだけで今は結構です。」とだけ言いました。意外に思って先生の顔を見つめている私に先生は続けて言いました。
自分は生活に必死な状況で子育てをして子供を学校へ通わせるお母さん達にたくさん出会ってきましたから今のお子さんに必要なことがわかります。まずお子さんが健康な状態で毎日学校へ登校することです。お子さんには学校が必要です。それだけを今のあなたが助けてくれたら、やがてあなたに色々なことを建て直す体力がついてきます。体力がついてきたら生活が回り始めます。あなたのような状況の母親に、自分の子供に人並みのことをしてやったらどうなんだと説教めいたことを言ってもなにもなりません。まず最優先のことだけをお伝えしますからそれをしっかりやってください。学校へ来たらお子さんは担任の自分が引き受けます。先生は穏やかな口調でしたが、しっかりと私の顔を見つめてそう言いました。教室に入った時の夕闇はもうすっかり夜の闇になっていました。
その先生との出会いから、その先生の言葉を聞いてから、私は少しづつ生活を立て直してゆくことができるようになりました。にっちもさっちも行かなかった私の生活の歯車はゆっくり動き始めて小さな力が満ちてゆくようでした。大きな歯車はあんなに四苦八苦してもビクともしなかったのに、小さな力が少しづつ満ちて、ゆっくりときしみながらも、やがて大きく回り始めてゆきました。
子どもが小さい頃、自分が病気になったり、仕事との両立に悩んだり、子どもの発育や発達に振り回されたり、母親の心は千々に乱れるものです。乱れることに体力を消耗し、消耗したことが原因だと責められたりもするものです。どこかで生活を建て直してゆかなければ、自分が建て直しさえできればこの問題は解決して行けるのに、そう考えても一向に状況は変わらず、どんどん悪化してゆくことに目を向けず、逃げ出してしまうこともあります。そんな時は誰かにバッサリと整理をしてもらって、あれもできない、これもできいないとサジを投げ始めている自分に、まず一つだけ最優先事項の小さなことからやりましょうと背中を押してくれる人が必要です。多くを望む前に、不安に押しつぶされそうになる前に、疲れ果ててサジを投げそうになる前に、自分を建て直して行くために。子育てでは「どうしてそうなったのか」を知ることも大事ですが、「どうしてゆくのか」が大事な時があります。「じゃあ、具体的にどうするか」みくま幼稚園をそうしたことを一緒に考える場所にしたい、幼稚園の経営をする中で、それも私の希望の一つになりました。
あの先生と話をしてから8年あまりすぎて私の息子は家から無事に巣立って行きました。今も達者に一人暮らしをしています。8年といえば長いけれど、正月が8回だけだったといえば短い時間だったのです。今の私に比べれば、あの時の先生は随分若い年齢でした。就業時間をすぎても私の話を聞きたいと懇談のためにだけ夕闇の教室の中で私を待っていてくれたあの先生の姿を色あせることなく思い出すことができます。
今、ようやくこうして振り返ることができるようになり、感謝の気持ちいっぱいに思い出します。
傘と一期一会と相談の話
みくま幼稚園には子どもが在園するしないを問わず事情によっていろんな人が相談に来られます。問題を解決する特効薬はないけれど、止まない雨がないように、物事にはやりようがあって、時間をかけたら乗り越えて行けることもたくさんあるし、訪ねてきた人には進む方角を自分の力で定めて行けるようにと考えて話を聞きます。そこに至るようになったのには一つの出来事がありました。ある時、雨宿りをしていた見知らぬおばあさんを車に乗せたのです。
それは私が子育て真っ最中の頃で上の子は幼稚園、下の子は保育所とあわただしい毎日は戦争のようでした。色々な人たちが私に忠告したり、助言をしようとしましたが、人に自分の苦労がわかるもんか、と髪を振り乱した私はできないことは仕方がないと放り出し、代わりにできることを探しているうちに時間を過ごし、必死で追われる綱渡りのような暮らしでした。そんな時に息子の友人のお母さんが亡くなり、お父さんが仕事をしながら二人の子の世話をせねばならない状況となりました。見かねた私はもうこうなったら二人も四人も大変さは一緒だと考えて、子どもたちを寄せ集め、合宿みたいな生活を始めました。
ある日、四人の子どもを乗せて閉店時間が迫るスーパーへと車を急がせていると、突然大雨が降り出しました。夏の蒸し暑い頃で大きな雷が鳴っていました。するとふと歩道に見知らぬおばあさんが立っているのに気づきました。住宅の軒先を借りるようにして雨宿りをしていて、傘は持っていません。空をじっと見つめている姿がどうしても気になって車を逆戻りさせました。「どうしたの、どうしたの?」「あ、さっきのおばあちゃんのとこに行くんだね!」子どもたちが興奮して騒ぐのを尻目におばあさんのそばで車を止めると「お近くならお送りします、乗ってください。」と遠慮するのを、子どもで満席の車に押し込むようにして乗せました。それなのにおばあさんはなんだか嬉しそうで子どもとおしゃべりを始め、自分には理由があってこの近くの施設で暮らしているのだが、用事があって外に出て、道に迷って雨宿りをしていたのだと話しました。降りるときには大騒ぎしている子どもたちに「ああにぎやかで本当に懐かしい。ありがとう。」と、笑顔で挨拶をして帰って行きました。雨上がりの施設の玄関に出てきた職員らが優しくおばあさんを迎え入れ、子どもたちは手を振り見送りました。
スーパーの閉店時間は過ぎてしまったので晩御飯は外食になりました。食事を前に子どもたちはそれぞれに好き勝手なことをおしゃべりしていましたが、私はどうしてあの時引き返したのだろうとぼんやりと一人考えていました。もちろん急な雨に降られて困っているんだなとは思ったけれど、止まない雨ではなかったし、どうして無理に引き返したのだろう、と。人助けをしてよかったという気持ちはなく、こんなにこの出来事が自分の中で引っかかるのは、どうしてだろうと気になるのです。施設の職員の人の笑顔、傘を持っていなかったおばあさん、私が一人で傘を持って歩いていたらどうしていたのだろう、そうして今までの色々な出来事が頭の中を巡りました。そういえば、今までもたくさんの人たちが私に傘を差し出してくれたのではなかったか。もらった傘を渡してくれたり、自分がさしている傘を見かねて譲ってくれたり、たくさんの人が通りすがりにそっと私に傘を貸してくれたのではなかったか。それなのに私はそんな人の名前も聞かず、顔も見ず、時にはひったくるようにして借りておいて、雨がやんだら忘れてしまっていたのではなかろうか。傘を差し出して自分は濡れて行った人だっていたのではなかったか。別れ際のおばあさんの顔と言葉を思い出し、自分はたくさんの傘を借りたまま、家の中に打ち捨てたまま放っているのではなかろうか、はたと気がついたような気がしました。
私に傘を貸してくれた人たちを探し出すことはもうできません。だから今必要だという人たちに手渡して返していこうと考えました。私の元でたまっていたものもきっとリレーのたすきのように手渡され、繋がれたものだと思ったからです。そうして私は借りた傘を返却すべく、みくま幼稚園でよろず相談を始めていました。
人生には雨降りの時があります。迷って困っている時というものは、たいてい悪天候の最中、おだやかな晴天ではないものです。その渦中、道しるべとなる相談所を雨宿りに訪れた人たちに傘を差し出すのが相談という仕事になりました。
相談の申し込みを受けると、正直逃げ出したくなる時だってあります。仕事や家庭で難しい問題が起こっていたり、対処に苦慮していたり、そんな風に自分のことで精一杯の時には、人のことどころではなくてとにかくそっとしておいて欲しい、ゆっくり悩む時間が欲しいと引きこもりたくなるものです。それでも訪れてくる人に背中を押されて席に着いて話していると、だんだん自分を取り戻し、立ち止まって時間を潰すより歩く方角を探してゆこうと考えだして、相談者に私が助けてもらったりするのでした。そんな時はふと、あの時食事の席でぼんやりと考えて気がついたこと、それが今の私の人生に続いていると感じます。あの出来事には多分私の行き方を指し示す確かな意味があったのです。
あれから数え切れないほどあの道を車で通りましたが、もうあのおばあさんに会うことはありませんでした。あのにぎやかな合宿生活も一年余りで二人の子ども達の父親の転勤によって幕を閉じました。その後子ども達はみんな元気に育ち、全員が成人式を終えました。あの二人の子らは、転居後もお父さんに立派に育てあげられ、今は専門職で働いています。
本当は、雨宿りをしていたのは私の方で車に乗せてくれたのがあの見知らぬ人だったのではなかったか、あの頃私が濡れてしまわぬようにずっと傘をさしてくれていたのは、本当は子ども達の方ではなかったか、今となってはそんな気持ちがするのです。
ずいぶん昔の、今も夕立の季節になると懐かしく思い出す一期一会の出来事です。
進路の話 〜父と相談の思い出~
集団生活が苦手だった私にとって、大阪への転居と同時に始まった小学校生活は苦難苦渋の連続で、良い思い出がありません。中学校に行っても学校への失望は続き、やがてはこんな生活があと何年も続くことは耐えられない、自分の人生が無駄になってしまうと考えるようになっていました。中学校3年生になった頃、母にどこの高校に行くのかと聞かれ、「高校には行きません。中学校で卒業します。」とこたえたのでした。学校へは毎日通っていましたが、自分の求めるものを見つけることができずにいたのでした。
私の小学校入学と同時に単身赴任となった父は、週末に帰宅すると日曜日の朝に私と犬の散歩にでかけたものでした。散歩の最中に特別な話も白熱した議論もありません。犬の様子や草木の様子、池の魚や虫の様子、同じものを眺めながら二人でいろいろな話をしたのでした。しかし、中学生になり思春期に入った私は父との距離を取るようになり、その二人だけの散歩の機会は減って行きました。
その父が、母との進路の話をした翌日、平日の水曜日にも関わらず東京から急ぎ帰ってきました。父は私を呼ぶとおだやかに、「お前は中学校でやめるのかい?」と尋ねてきました。「うん、もういかない。」「どうして高校へ行かないのかい?」私には熱中できるものがあると思うけれど、学校生活を続けていても見つけることができないと感じていました。私が学びたいことは机の上のことではなく、もっと違うことなのだ、このままではずっと手に入れられない、私は自分が打ち込めるものを探すために学校で浪費している時間をもっと有効に活用したい、そんなことを父に伝えたように思います。父はにこにこして、「しほこなあ」と私の名を呼びました。父はよい考えが浮かぶと、いつもそうして私に声を掛け、自分の提案を聞かせたものでした。
「しほこなあ、お前、中学校の卒業と高校の中退との違いを知っているか?」「知らない」父は「明日から、今のお前がまったく受験勉強をしないでも入れる高校は日本のどこかにあるはずだから昼間の高校でも夜間の高校でもいい、その学校を見つけてきなさい。」と言いました。その学校を見つけたらお前は受験をしなさい。合格したらお父さんが入学金も授業料もお金は全部払ってあげます。合格して入学通知がきたら、もうお前は行かなくてもいい、入学式にも出席しなくていい。だってもうお前は高校に入ったってことなんだから。父は独自の理論を展開しました。
「入った高校が面白そうなら通えばいいし、つまらなければ退学をすればいい。どうせ卒業する気がないのなら、お前の思う通りにしてみたらいい、やってみなさい。お前はお父さんの子どもだから、困ったら必ずお父さんが助けてやる。お父さんが必ず助けて支えてやる。」父は犬の散歩の時の幼い私とのやりとりの、あの同じおだやかな口調で私に話をしたのでした。やりたいことを探すなら、学校という場所の方が多くの人に出会え、たくさんのきっかけにも恵まれる。そこがダメなら違う場所へまた行けばいい。父のひとつひとつの言葉は私の胸で新鮮に響きました。それまではそんな考えがあることを教えてくれる大人は誰もいませんでした。
実は、父の提案は私が心のどこかで望んでいたものでいた。私はやはり学校に自分の居場所や仲間、将来の可能性を求め探していた子どもだったのです。そうして私は高校で美術部の先生に出会います。平日は学校で働いて美術を教え、休日には旅をして、画業を営んでいる芸大出身の先生でした。先生との出会いにより、高校にすら行く気のなかった私は芸大受験を考えるようになりました。やがて、ものをつくることから自分の発想を現実化してゆくということに喜びを見出すようになります。そして自分の生涯をかけての職を考えた時、「自分なら、あの時の自分のような子どもがやりがいをもって通える学校が実現できるのではなかろうか。」そう考えるようになり、体験が教科書である体と心の学校をつくりたいと志すようになっていきました。
私が大学受験を考えながら高校生活を過ごしていたある日のことでした。日曜日に帰ってきた父が私の朝食の後で「しほこなあ」と私を呼びました。「お前、高校卒業と大学中退の違いを知っているか?」「うん、知ってるよ。」笑った私に「そうか。」と父は愉快そうに応えました。
相談で解決できることは少ないかもしれない。でも相談で道が開けることがある。これしかないと思い詰めて不安に固まっていた肩をぽんと叩かれて、振り向いてみるとなんだ他にもあるじゃないかと気が付いて新たな道を発見できることがあります。行き止まりだと思い込んでいた道行きは実は大きな曲がり角で、その先に思いもよらなかった道が続いていることがあったりします。進みたい方角があるのなら、その方向へ進んで行こう、どれが近道かはわからないけれど、誰も通ったことがない道であっても、それが回り道であったとしても、どこかに日が差しているからそれを探って行くんだよ。相談とはその手伝いをすることだ。父との思い出はそう教えています。
子育てに一段落した私ですが、今も自分の進路に迷います。暗闇が迫る気がしてきます。そんな時、父と相談した日のことをいつも思い出してみるのです。同じ思いで様々相談にやってくる保護者の前にすわる時、私が大切にしている思い出です。
卒園に寄せて
卒園の季節がやって来ました。桜のつぼみがふくらんで、寒の戻りが終わったらもうすぐに爛漫の春がやって来ます。まだ下の子が幼稚園に通う、そう思うのと、もう幼稚園に通う日々と別れてゆくのだと思うのでは随分差があります。幼稚園にまで子どもを送り届け、子どもが戻るまでに用事をすませ帰宅後の生活の段取りをして、目の回るような一日が終わる頃は子どもが寝息をたてた時。そしてまた朝が来て。そんな生活の中でいつも当たり前のように通っていた幼稚園にもう行かなくなる。次通う場所が小学校に変わるだけだとわかっていても、通っていたのは子ども自身だけだとわかっていても、母親にとってはなんとも言えず寂しいものです。
まだ我が子と自分の精神世界が混然一体と混ざり合い、互いにあたたかな血を通わせ合っている母と子の世界では、子どもが初めての社会生活で苦楽を体験しながら学び取り、身につけてゆく成長は、何者にも変えがたい喜びです。卒園式で流す母親の涙は、自分の苦労を振り返り、我が子の成長という証を実感するからです。あんなに小さかった子が大きくなっている、あの頃にはできなかっただろうことをやっている、その姿を目にした時、今も昔もただただ無心に生きて大きくなっている我が子と過ごした様々な時間が思い出されるからでしょう。子供を産んで育ててゆく事は母親自身の人生を大きく変える事です。想定のつかない世界へたった一人で飛び込む事です。それは、もう子どもを産む前の人生に二度と戻れないということを思い知ることでもあるのです。
飛び込んで入った子育て道中は回り道あり、迷路あり、効率的なルートはありません。そうしてたどり着く目的地は「子どもの自立」です。子どもにとっては家族という小さな共同体から、社会人という大きな共同体へ向かう道中です。これから何度も春を迎え、子どもは新たな旅立ちをしてゆくでしょう。それを見守る親にもいつかは必ず子育てが卒業の時がやって来ます。どんな家庭にも、どんな親子にもその時がやってくるのです。
母子手帳には成長曲線というものが載っています。18歳まで体は大きくなるのだよ、心も大きく深く育つのだよと書かれています。大人の体になってからの心の発達は成熟の期間です。人生はあわただしい毎日の連続かもしれません。でももうこれからは少しずつ自分で自分のことを考える時間を作って行きましょう。私たちはこれからも成長し、成熟を重ねてゆけるのです。日常の中でていねいに自分の気持ちを拾って行ける時間を持ちましょう。そして、ゆっくり本当の大人になってゆきましょう。そして本当の子育て卒業を迎えるまでの時間を、ゆっくりていねいに生きて行けるようになりましょう。今を生きるお母さん達に、振り返れば、どんな出来事も糧にできたと感じることができる、そんな生き方を自身に願ってこれからの時間を生きてほしいと願います。
子育ての時間は長いようで短いものです。小さな子どもは時間とともに大きくなります。子育ては自らの子ども時代と我が子のそれを重ね合わせながら、より光の差す明るい道へと歩みを進めてゆくための天与の機会です。もう少し、ゆっくり子どもの時間を生きてゆきましょう。
千里中央と桜の話
1967年のことです。建設が終わって、ようやく1学期も終わりの7月にみくま幼稚園の1期生の入園式を3ヶ月遅れで行うことができました。生徒が7人で教職員11人の船出です。当時はまだ千里ニュータウン計画のもと、豊中市にもようやく新千里北町、東町、南町、西町と4つの町の名前ができたところで民家もまばら、一番近い駅は阪急電車の南千里駅でした。小学生になったばかりの私は、母の仕事が終わるのを待っている間、当時はまだ松林の、千里中央駅予定地で松ぼっくりを拾って遊んだものでした。自宅は阪急南千里が延伸されてようやくできた北千里駅の近くにあったものの、交通も大変不便でありました。
そして1970年、千里万博が開かれます。大規模開発により新御堂筋ができ、北千里、山田、千里中央という一大拠点ができ、万博景気に包まれます。「映画やプール、ボウリング場、マーケット、複合的な娯楽施設のセルシーという建物が千里中央にはできるらしい。」そんな話で持ちきりになり、松林がどんどん切り崩されてゆきました。
私が小学校に入って1年が経つ頃でした。春休み中だったのでしょう、今日はお昼で帰りましょうと先生達が帰宅することになりました。北千里行きのバスは出たところでしばらくきません。数人の先生達と 母と私は桜の頃だから花見をしましょうと、北千里までの4キロほどの道のりを歩いてゆきました。道の両側に桜がみっしりと咲いていました。その下を行列になって進みながら、先生達は歌を歌ったり、冗談を言い合ったり。花びらがほのかに散る中をにぎやかに行進しながら、季節に祝福されているような喜びを感じていました。
そんな時、来ないはずのバスがやってきました。故障で遅れていたそうで、千里中央から大急ぎで向かってきたのです。私たちは喜んで手を振って、近くの停留所まで大騒ぎで走るとバスを停めました。その時、風が吹いて、あたりは見たことがないような桜吹雪になりました。あたりが花びらで見えなくなるような。みんな喜んで大歓声をあげ、バスに乗り込んだのでした。春には桜で満たされるこの街にこれからもずっと居るんだな、これから何度もこの風景を見るのだな、夢のような光景を窓から目にしながらそう思ったことを、今も鮮明に覚えています。入学とともに大阪へ転居したものの「東京へ帰りたい。」そう言ってずっと馴染めない学校へ行くのを嫌がっていた時期がようやく終わったのは、ちょうどその頃でした。
それからも北千里の家にすみ続けました。ずっと居るのだと思っていたのに、桜が20回ほど咲いた頃、私は家を出て独立しました。千里中央の名が広告でうたわれる今、あの松林や一日数便だったバスを懐かしく思い出します。1期生が植樹した正門の桜に硬い蕾がつき始めるこの季節になると、あの爛漫の桜吹雪がよみがえってくるのです。幼稚園ができて50年が過ぎ、今年は114名の卒園児がこの門から旅立ちます。千里中央の西にある小さな町の幼稚園で過ごした1年、2年、3年の時間を胸に新天地へと巣立っていくのです。移ろい行く人々を見守ってきた街、バス通りの桜並木のように、みくま幼稚が子ども達の、お母さん達の心の中にいつまでもあり続けるようにと願い続ける私も、見守られる側から見守る側へと、移ろっていったのだ、そんな年齢になったのだと感じます。
この春、桜の咲く頃に、もう一度あの道を歩いてみようと思います。懐かしいあのバス停への道のりをたどってみたい。そんな気持ちになりました。
花さき山の話
「花さき山」という絵本があります。地味な本で、みくま幼稚園の図書室にも長い間置いてあります。切り絵でできた美しい絵本なのですが、子どもが飛びつくような楽しそうで胸踊るといった印象の表紙でもありませんから、なかなか借り手もつきません。私の母が園長だった頃、母はこの本が好きで機会があれば保護者や子ども達によく読んでいました。
当時は事務所の職員として川崎さんという年配の女性が勤めていました。温厚なその人柄から保護者や子供たち、職員にもとても慕われていました。冬休みには川崎さんのご夫婦が毎年のように職員を連れてスキー旅行に行きました。その頃は、みくま幼稚園が通園バスを持たず徒歩通園だけだった時代で、千里ニュータウンの老化に伴い西町の子どもが激減していました。通園バスを持てば一つの小学校区の一つの私立幼稚園の均衡が崩れます。といってこのままでは経営が破綻する。オイルショック以降の時代の過度期がやってきて、みくま幼稚園もクラスが減少、2階の保育室は戸締めになり、何かひっそりと寂しい影が幼稚園に住み着いていました。通園バスを持とうと決断した母は、事務所の川崎さんとたった二人で幼稚園のパンフレットを配りにまわります。マンションの説明会場や管理組合、様々なところにみくま幼稚園が通園バスを出して子どもたちを送迎することを伝えにいったそうです。当時は幼い子どもがバスに乗って遠くの私学に行くことに抵抗を感じる保護者が多い時代でした。保育年数は1年保育、2年保育が主流です。3年保育の子どもはほとんどいない時代でもありました。経営する者にとってはいつの頃も四季があります。冬の季節がやってきた時、たった一人で大きな決断を迫られることがあります。そんな時、事務所に座る川崎さんは親身な相談相手でもあり、心を温めてもらえる相手でもあったのでしょう。
川崎さんが病気で亡くなった時、母は全職員に「花さき山」の絵本を贈りました。表紙をめくるとそこには川崎さんへの思いの手紙が添えられていました。
一つ親切にすれば一つ花が咲く。やさしい心でやさしい小さな花が咲く。その一つ一つが集まって美しい花を咲かせている花さき山、迷い込んでしまった女の子「あや」はやまんばに出会い、花さき山の由来を聴きます。しかし村に戻れば大人達からはそんな場所はあるわけない、狐に化かされたんだと笑われます。再びその場所を訪ねようとしても、もう二度とその花さき山へは行くことはできませんでした、そんなお話です。苦しくても楽しくても、今日という日が二度とは来ない私たちの人生の中で、ともすれば忘れられてゆく他者への小さな願いや思いやり、やさしい気持ちが花になって咲いている。物語は最後に「けれどもあやは、そのあと、時々『あ!今花さき山で、おらの花が咲いてるな』って思うことがあった。」そう綴られています。
この幼稚園に勤めて以来、私はたくさんの人の優しい気持ちに出会ってきました。我が子以外の子どもへの思いやり、自分以外の人間のための苦労、人知れず、黙って静かに施されてきた優しさの数々に触れることができました。今を生きる子育て中のお母さん達も、時々思い起こしてください。たくさんの花がきっと花さき山に今揺れているでしょう。
みくま幼稚園の運動場には3つのお家が立っています。そのいちばん小さなお家が「トキちゃんハウス」です。お葬式の後、川崎トキ子さんを忍んで建てられたお家です。めぐる季節の中でひっそりと園庭の花や木の下で、子ども達を優しく見守っています。
もんろーせいへそせんつうの話 〜大きくなったら出来ることの一つ〜
私は子どもの頃、神経性の腹痛をもっていました。外出が嫌いな私は家族がお出かけするときも行きたくないと困らせました。家にいるのを好む子で、外は騒々しくて安心できなくて様々な予想できないことが起こりそうで面倒臭いのです。想像力豊かであるがため、家の外は私のテリトリーの外界で心配や気苦労を見つけ出してしまい、楽しいはずの泊りがけの旅行に行っても一晩中お腹が痛いと泣いて台無しにしたこともありました。不意にものすごく痛くなり、不意にけろりと治ってしまうもので、そんな原因不明で深刻な腹痛がその後の私の人生でも何度か起きました。小学生になっても、中学生になっても、大人になるまでの間おこり続けましたが年齢が上がるにつれてその頻度は格段に減っていったのでした。おおきくなるにつれて私は自分の厄介な腹痛を理解して、これはお腹が痛くなるかもしれないな、そう思うと対処できるようになりました。ついに腹痛が起こらなくなって久しくなった頃、私は母親になっており、まだ小さかった娘に原因不明の腹痛が始まりました。
それはそれは痛そうなのです。習い事の先から「お腹が痛い。」とつらそうな声で電話をしてくる娘を車で迎えにいったことが何度かありました。一応小児科や病院でもみてもらい、中学生になる頃には胃カメラも飲んでみたのですが、どうにも原因がわからず、神経性の腹痛との判断でした。不意にやってくる腹痛に不便をする本人を尻目に私は深刻に心配できません。「大きくなったら治る、大きくなったら治りはしなくてもちゃんとつきあってゆけるようになる。」そんな風に思い込んでいたのでした。自分が神経性の腹痛であったので、多分この子もそうなんだろうな、という思い込みのような仲間意識のようなものがあったように感じます。
どうしてお腹が痛くなるのとたずねる娘に私は当然のように「へそせんつう、もんろーせいへそせんつうです。大丈夫、大きくなったら治ります。」と答えたものでした。それは私が幼稚園に通っていた頃、食卓に座っているとき、母が私に伝えた言葉でした。お医者さんにつれて行ったら、それは子どもに起こる腹痛で、モンロー性臍疝痛(へそせんつう)と言われたとのことでした。大人になってもその言葉を覚えていた私はそれがどういった病気か調べたものですが、モンロー性とは書いてありません。反復性臍疝痛とか臍疝痛と書かれています。モンロー博士が命名したのか、モンロー的傾向があるのかわかりませんが、とにかく自分にはそういう腹痛があったのだ、今も腹痛は起こらないまでも内在していて、たえずなにかしらの不具合不調性をひねりだすのだと感じていました。私の臍疝痛が減っていくにつれて別の神経性の症状が次々に現れては消えていきました。子どもの神経性の症状についての研修会へ行ったとき、リストアップされていたものはほぼクリアしていたのに驚いたものです。まあ、育てていた親には大変な心労だったと思います。私が大人になるまでの間、様々な神経症がやってきては去って行く中、心配する親を尻目に私は信じて疑っていませんでした。「おおきくなったらなおります。」それは完治を意味するのではなく、小さな私は「大きくなって行けば自分でちゃんとやってゆけます大丈夫。」と解釈したのでした。最初に言われた母親のその言葉はストンと私の中に入ったままで、決して揺らぐことがありませんでした。お医者様にみてもらい、説明をうけて安心した母親が、食卓に向かい合わせに座って幼い私にきちんと説明してくれたやさしい説明を、私はずっと心のどこかで信じていたのだと、娘の腹痛は思い出させてくれたのです。幼かった私とまだ若かった母親がたった二人きりで向き合っていた瞬間を。
自分と子どもは違うのだからもっと深刻に心配をしてやらなければならないときもあるのに平気でいてしまったり、不安ゆえに子どもを怒ってしまったり、子育てはそんなことの連続です。娘の腹痛の一件は、「いつか治る」という思い込みのもと、あぶない橋を渡らせたものだとも感じます。しかし、よくよく思い起こしてみれば、医者に行き、専門家の意見を聞いた上で私はそういう判断を下したのでした。子育てをする中で親はあぶない橋をいくつも渡る必要に迫られます。「本当にこれでいいのだろうか、これが考えられる全てだろうか。」選択を迫られたときに初めて人は考える。考えて行動をしたことはやがては「大丈夫」へ行き着く遠いみちしるべなのでしょう。考えてはみたものの行動にはうつせず、相談に来られたお母ちゃん達が子どもと川を渡るのを手助けする際に私自身の経験、娘と向き合った経験が役に立ちました。そして向こう岸に行き着く背中を見守ることが、また、次のお母ちゃんへのアドバイスに生かされます。
この週末には娘が実家に戻ります。子どもの中に自分を映し込み、子どもという鏡に映った自分との日々、その時間とつきあいながら大人になった私の娘、そんな私たちの日々のやりとり見守りながら孫の帰宅を楽しみにしている私の母、もう誰のお腹も痛まないでしょう。食卓におだやかに3人が座ることになりそうです。
幼稚園に行きたくなかった日の思い出の話
幼稚園に通っていた頃、どうしても行きたくないという日がありました。私は幼稚園が嫌いで、おばあちゃんに連れて行ってもらっている自分のこと、園の正門に入ったところでおばあちゃんを引っ掴んで泣き叫んでいる自分のことを覚えています。理由は意地悪の子がいるからだとおばあちゃんに伝えたことも覚えています。もともと行きたくない日が多いのに、とにかくその日は何としても行きたくなかったのです。
当時は1960年代、私が住んでいた社宅は映画「オールウェイズ3丁目の夕日」に出てくるような東京の下町にあり、会社の社宅敷地内に小さな家が並んで建っていました。小さいながらにも庭もあり、幼かった私には天国のように安心で安全な場所でした。私はこの家の6畳ほどの座敷が好きで、寝転がっては天井の木目の模様を眺めたり、庭先の小さい池の中に住んでいる亀を眺めたり親友であった飼い犬のチコと幸せに暮らしていました。門外の世界は騒がしくガサガサとしていて私にとって家族に連れられて街中へ出かけて行くことは大変苦痛でした。そんな静かな自分だけの世界を愛してやまない私にとって、同世代との騒がしく不便で落ち着きのない集団生活の時間は苦手でなじみたくない世界でした。
さて、先述の私がたいそうおばあちゃん困らせて登園した日のことです。帰り道は先生らしく大人に手を引かれ、やっぱり泣いて帰宅したように思います。夜になって大阪から帰宅した母は私を叱りました。母の留守番中ずっとおばあちゃんに駄々をこねてたいそう困らせたからです。「留守の間良い子にしているのよ」と母に言われ、そうしようと思っていたけど全く正反対の結果しか出せなかった自分のことは理解できたので、幼い私は叱られたのは仕方がないと考えましたがとても悲しい気持ちがしました。正義はどこにもないような気もしました。この記憶は私が50歳まで残っていました。
50歳の頃、私は子育てが一段落し、子どもは家から独立してゆきました。そんな頃、私は一人のカウンセラーを見つけます。人の相談にばかり乗らないで自分も相談体験をしてみようと考えたのです。ところがカウンセリングを受けましたがかんじんの相談事がありません。私は人に相談することに慣れていなかったのです。そんな私にカウンセラーは自分の物事への考え方や感じ方を丁寧に掘り起こす作業をするように言いました。そして、今も思い出すこの出来事を相談してみることにしたのです。そして何度もなんどもこの出来事を相手に話すうちに、大変なことに気がつきました。あの出来事は嘘ではない。でも私が見ていた物語は幼児の私に見えたほんのかいつまんだ小さな世界でしかなかったのです。つまり、大人になった私がもう一度その物語を読み返した時、それは実に未熟な子供の視点で捉えた子どもの書いた物語であり、それがまぎれもない真実だとずっと心の底に気持ちを抱えたまま自分は50歳になっていたということです。
母はその頃、大阪にある実家の家族の介護のため東京の自宅を留守にしたことがありました。父は仕事が忙しく出張が多い頃でした。母の家族の病状は重く、まだ交通の不便だった当時、子育てと介護の往復は大変な作業であったでしょう。それはほんの一時期のことで私が感じた以上に短い期間であったでしょう。そして私に意地悪をしていたという子は本当に意地悪をしていたのでしょうか。よく考えてみると意地悪された具体的な記憶はないのです。私はその子のことを知っていましたが遊んだ記憶もなく、同じクラスにいたとしても遊びや好みが違うため接点がなかったことを思い出しました。どうしても行きたくないけれど理由が自分でもわからないので何かのきっかけを捉えて自分が意地悪されるような気がしていただけだったのです。それなのに先生らしく人は泣いている私の手を引いて家へ送ってくれたこと、おばあちゃんは私が不安から泣いてぐずっているだろうからと先生や帰宅した母親に説明していたこと、東京でも家族で過ごしたたくさんの楽しい思い出もあったこと、幼稚園にはえみちゃんという親友の女の子がいたこと、近所の年の離れた女の子や男の子が年齢の小さい私にも大人にさとされて親切に遊んでくれたこと、たくさんのことを思い出しました。私は不安で泣いていたけれど、私の周囲の大人はたくさんのほどこしをしていたことが察せられます。ずいぶん前の話ですから記憶があいまいであったり、順番のズレもあるでしょう、それでもあの物語のは背景があったこと、あの頃の自分には見えなかった物語がたくさんあっただろうことを感じました。あの頃の自分はどんなにまだ幼い子どもであったことでしょう。私は本当に自分が大人になったのだと実感し、満たされて幸福な気持ちで自分の思い出の物語をあらためて読み返すことができたのでした。
子どもの認識はまだ未熟です。子どもにとって「ずっと」であっても、時計ではかれば「ほんのひと時」であったりします。それは「どのくらいの時間だった?」ではなく「どんな気持ちだった?」の問題だからです。子どもには時間や頻度や抽象的な感覚はまだ理解することはできないからこそ理屈なしに本質的なものを感じ取る力が備わっています。そしてまだ自分が感じている感情を説明する手段がなく、言葉を豊かに知っていたとしてもまだ自分が無意識に感じ取ったものを上手に説明することはできません。子どもが幼稚園に行きたくないと言って泣いても、言葉で説明させようとしたり、説得したりせず、体調に不調がないか、気温や湿度が気分に影響していないかを確認し、体に不調がないのなら行きたくない気持ちだけを受け止めて送り出してやってください。そして今朝そんな状況だったと連絡帳で幼稚園に伝えてください。
私の場合おばあちゃんが先生たちに伝えてくれました。きっと事情を聞いた先生が見守って帰り道の私の手を握っていてくれたのでしょう。私は泣きながらその手を握って歩いていたことを覚えています。
子育てをしていると親は子どもに自分を写しこみます。冷静を失ってしまうことがあります。その原因には自分の子どもの頃の体験で感じた気持ちが影響していることもあります。子どもではなく親自身の相談が必要だと感じても、どこの誰に話せば良いのかがわかりません。私自身のそうした経験から、みくま幼稚園では子育てにまつわる様々な相談事をお受けしています。私以外にも幼稚園や保育所での現場の者と外部の心理カウンセラー、言語聴覚士など専門職の人間、様々な人と保護者が相談することができます。もう自分はあの頃の自分ではないのだ、そんなことを実感できるように心がけています。あの頃の自分から今の成長した姿の自分へと物語が続いている、それを実感して自分を信じることができるよう願っています。どうぞ子育てが一段落してしまう前に来てください。